引きこもり学生がなんか書くブログ

大学4年に至って、未だ卒業及び進路の目処が立たないクソ学生のブログです

自分の存在を肯定できるのは自分だけなのではないか?①

死への憧憬

ふと気がつけば、死にたいという四文字が頭をよぎる。
中学時代から、自分は他人と違うから、普通と規定されていない自分自身はここにいるべきではなくて、どこかへ行ってしまった方がいいのではないかという観念が頭を支配し続けている。
人間失格という四文字の悪魔的誘惑、自殺への無意味な憧憬、とめどなく流れ続ける自己否定、どんなに楽しいひと時を過ごしても、その次の瞬間にはその欠片が頭をもたげて俺を見る。
それは、若者の情熱の一方向性などというものではない。どうしても頭の片隅にこびりついて取れない。
自分は他人から必要とされていない。だから死ぬべきだ。そう思えて仕方がない。
高校の頃は、受験の煩わしさがその本質から俺を遠ざけてくれた。新たなる跳躍のための蓄積の期間が、それだったに違いない。

他人からの評価

大学に入って、団体の長になると、やはり失敗続きで、そういうことをまた考え出す。俺は失敗しかしない。失敗が怖いから挑戦もしない。もはや生きるのに疲れ切った。誰からも必要とされないのならば、もう死んだ方がよい。
そうとしか思えなかった。俺は人生の敗者だ。脱線した車両だ。なぜなら彼らは俺を侮蔑の表情で見つめるからだ。

しかし、そうではなかったのだ。彼らだって人間なのだから、俺を憎んだり、蔑んだり、呆れたりしただろう。それは事実だと思う。
だけども、それが全てではない。人間は複雑なもので、俺には理解できない感情だって数え切れないほどある。どれほど小説を読んでも、どれほど映画を見ても、どれほど人の話を聞いても、俺は俺の世界から脱け出すことはできないからだ。
だから、他人を基準にして自分の存在価値を決めるのは無意味だ。人間というものは協調して生きてきた動物だから、どうしても他人の目を気にせずにはいられない。日本文化もそれを重点的に見ている。それも起因しているだろう。他人の目を気にしすぎるあまり、生きるために右に倣い、自身の面子のために自決する。
だからこそここまでの自殺大国が出来上がったのだ。

しかし、生きる希望もそこから湧いてくるといえばそうだ。生きるためには、それがどんなに少数、たった一人であろうとも、他人が自分を必要としてくれている、というただ一つの存在証明を受け容れることは可能だ。

自身による自身のための規律

だが、それも自分の中での憶測に過ぎない。誰からも必要とされていないのに、烏滸がましくもそんな風に思ってしまうのは、いかがなものだろう。俺は正しいとは思えない。
この場合の正しさとは、俺の中での規律である。基礎からぐらぐらしていて、全く貧弱なものだが、それでも俺の中で確固たる地位を占める規律だ。掟といってもよい。法といってもよい。

他人によって存在価値が否定されたり、肯定されたりするくらいならば、やはり自分から自分の存在価値を揺るぎないものに据えたい。