引きこもり学生がなんか書くブログ

大学4年に至って、未だ卒業及び進路の目処が立たないクソ学生のブログです

日々感謝

日々感謝という言葉

部活なんかをやってる人間は、おそらく、横断幕やら、スローガンやらなんやらに「日々感謝」という文言を掲げているようなチームを、一度ならず見たことがあるはずだ。

俺は正直言ってこの言葉が嫌いだった。

なぜ、自分の意思ではないのに、こんな苦しくて、無惨で、居心地の悪い、妙竹林な世界に産み落とされて、そんなことを強要されなければならないのか。

だからこそ行き交う人々の心遣いに感謝するという意味なのかもしれないが、あまりにも即物的で、かつ他人から見られる自分たちを象徴化しているようにしか見えない。

爽やかであれ、清らかであれ、強くあれ、礼儀正しくあれ、そんな言葉を他人から出させるように仕向けている。

「日々感謝」

感謝とは、何のための感謝なのか。

そこが曖昧だから俺はそこを「チームの外面を気にした言葉」にしか見えないのだ。

俺は、チームにつけられたその言葉を、その片鱗しか理解していない。

チームはもしかすると、その文言が使われ続けるうちに、自分たちがそういう組織であることを内外に示すためだけの道具だとしか思っていないのかもしれない。

だが、言葉は元来が曖昧なもので、数学のような公式化は不可能である。

曖昧であること、それ自体がとても重要なのだ。

曖昧であるということは、各々にその解釈を任せるということで、擦り合わせは多少あるにしても、それをスローガンとしたチームのメンバーはもっと根源的なところでこの言葉を使っているのだ。

誰でも一度は思うであろうことだが、どうせ便所の片隅のクソみたいな場所なので、思い切って全部ひり出そう。

一番大事なのは、「日々生きていることに感謝する」ということなのではないか?

自分であれ、他人であれ

生きているということは、ともすれば退屈なポチポチゲーになり得る。

赤子の頃に外部から受ける刺激は、今の我々の感覚からすれば、世界が変容するほどに大きなものであろう。

そんな日々の刺激も、年月を経るごとに磨耗し、見えなくなり、光陰矢の如し。時間感覚もすり減っていく。

だが、おそらく人間は迷い、道を見失い、そのポチポチゲーをやめようと思ってしまう。

そんな人々が、その道を進まないだけで、それは感謝に値することなのだ。

必死でそのポチポチゲーを激ムズクソゲーになってでもやろうとし続けるその生物本来の生きるという行為が諸々全て合わさって我々なのだ。

人間は動物の本能が壊れているから、生きてていいものを生きたらダメだと自己解決してその意思に従って自死まで選ぶ。

そうではなくて、社会に醜態を晒そうが、激ムズクソゲーの一面さえクリアできなかろうが、それでもいいから、やっていることそのものに意義がある。

自己は未来に投射された可能性の具現化であり、過去から現在までに届く一本の線だから、それを綱渡りし続ける人間は尊い

誰でもいい、生きとし生ける人間すべて感謝されるに値する。

要するに

いいんだよ、なんでも、生きててくれればそれでお前という人間を俺の両目で見ることができるなら。

飲もう。

どんな醜態を晒そうが、自分が変な人間だと自覚していようが、生きたということを誰かの目に写さずとも、自分に備わった目で自分を見てやろう。

生きている日々を俺とお前とそのほか大勢に感謝しよう。

ありがとうございます。

 

 

めっちゃ気持ち悪い文章やな。

でも記録として今の感情を残しておきたい。

お目汚し失礼いたしました。

他人の気持ちと俺の気持ち

他人はそれほど重大なこととは思ってないのに、俺ばっかりが深刻に考えて、俺だけ(そいつも辛いのはわかるが)辛くなるのは、なんとも度し難く、アホらしい。

結局のところ、お人好しのバカだから仕方のないことなのだが、もう少し、しっかりと自分を自分と感じながら、相手のことを思う方がいい。

自分の課題と他人の課題。

でも、他人の人生は背負いたくないけど、他人が死ぬのは嫌なのである。

なんとも度し難く、アホらしい。

 

社会の波にちゃんと乗れること

生きるのは辛い、そこで踏ん張るか踏ん張らんかは人によって違う。

社会の大きな波に乗れるか乗れないかっていうのは、少なからず本人の人格にも、その人の将来にも立ち現れる。

俺は今大学生だし、四年だから、もうみんな就活だの公務員試験だの色々きっちりやってらっしゃる。

率直に、こういう人たちはめちゃくちゃに努力したんやろなぁと思う。

ここで俺が言う努力ってのはコツコツ続けることもあるけれども、タイミングをここぞという時に掴まんがために心を練り続けるというのもあると思う。

無論、彼らはコツコツ努力を続けてきたのだ。単位というものを取るために必死で勉強し、たとえ一夜漬けだろうとそれで合格さえしてしまう。

俺にはそんな芸当とてもできやしない。

結果を求めるためには過程が重要だと妄執し、過程の伴っていない結果など無用と単位を捨てまくった。

それがこの現状である。

他人が羨ましくて仕方がない。

ちゃんと然るべき時に波に乗って、然るべき時に岸を掴んだのだ。

俺は大波を超える勇気がなかった。小さめの波を超えるのではなく、打ち砕いて「自分はできる」と思い続けた。

だから弱くなった。強い自分を温存し続けたら弱くなったのだ。

だから、生活に必要な不断の努力を俺は忘れてしまった。

生きるのが他人より辛くなったのだ。

めんどくせえなぁ。

 

鈴木常吉 「思ひで」

深夜食堂」という漫画原作のドラマがある。

そのオープニングで、「思ひで」という曲が流れる。

まずは、聴いていただきたい。聴き終わるまで、私の駄文は読まないでいただきたい。

以下、歌詞引用。

君が吐いた白い息が

今ゆっくり風に乗って

空に浮かぶ雲の中に

少しずつ消えてゆく

 

遠く高い空の中で

手を伸ばす白い雲

君が吐いた息を吸って

ぽっかりと浮かんでる

 

ずっと昔のことのようだね

川面の上を雲が流れる

 

照り返す日差しを避けて

軒下に眠る犬

思い出もあの空の中に

少しづつ消えてゆく

 

この空の向こう側には

もうひとつの青い空

誰もいない空の中に

ぽっかりと浮かぶ雲

 

ずっと昔のことのようだね

川面の上を雲が流れる

 

君が吐いた白い息が

今ゆっくり風に乗って

空に浮かぶ雲の中に

少しずつ消えてゆく

 

少しずつ消えてゆく

私自身はこの作品、漫画しか所有しておらず、このドラマを観たことがない。

しかし、この曲を聴いてしまえば、もはや云わずもがな、借りるしか無くなってしまった。

今月も金がないというのに。

 

鈴木常吉という人、何者なのだろう。早速通販でアルバムを買ってしまった。

出費は増えるばかりだが、もうなんとでもなっても良い。

こんな温かみに溢れる曲に今まで出会えず、悶々とし続けたことを悔い続けるだろう。

それでもいい。

私は日差しを避けて、軒下で睡る犬になりたかった。

なぜ気づかなかったのだろう。

ギターと、遠くから聞こえてくるような笛の音色が切なくて、帰りたくなるのだ。

 

 

自分の存在を肯定できるのは自分だけなのではないか?③

俺の規律

前回、前々回を踏まえ、俺の規律を構築しようと思う。

念頭に置いてほしいのだが、これより以降は完全に哲学でもなんでもなく、ただの素人が独り善がりに書く戯言であって、何の学術的根拠もなければ生活における知恵もない。ただ俺が俺のために書くものであるから、乱文駄文であってもご容赦願いたい。なぜなら決着をつけるのは俺のためだからだ。

 

「私」と呼べる自分は存在しない。自分は何処にいるのかと言えば、やはりそれは自身の認識の外にいる意識こそ自分なのだ。

①自分が「自分だなぁ」と感じる自分は、「私」そのものではない。それは自分によって演出された「自分」というイメージである。自分自身が知覚しない自分がいるのだから、これのみによって自分を自分たらしめるのは、自己中心の極みである。

②他人から見た「あの人らしい」という感覚も、やはり「私」そのものではない。それは他人によって見える範囲の「あの人」であり、当該他人から見た「あの人」というイメージである。他人からの評価のみを気にして、外部に見える範囲で自分を統制すれば、「あの人」というイメージは容易に作ることができる。だが、往々にしてそういった作為は見破られることになる。

③では、自分からも他人からも見えない部分はどうか。自分からも他人からも見えないのだから、それは最早何者でもない深層意識であって、自分を自分たらしめるものではないと思うが、やはりそこが「自分」を「私」たらしめる本質がある。

ぼーっとしていると、我を忘れてぼーっとするときがある。それが本来の「私」なのである。ただ無我になり、何かを行なっている時の、何も考えず、ただ黙々と行うその内面こそが自分を自分たらしめている。

それは、わたしのような浅学不遜なものには到底説明できない。だからこれは哲学でも、心理でも、脳科学でもない。ただの納得である。

深層意識よりもっと底の、シナプスに到達するその前、ある一筋の電気信号こそが自分であり、全ての根源なのである。

ふわふわした自分なんてものを探すから、どうすればいいのかわからなくなるのだ。自分の意思も、他人の意見も尊重してはならない。思う前に決まっていることに身を委ねることが自分の表出になる。

 

価値の創出

正直言って一個前の見出しは余談だが、俺の立場をはっきりしておくために一応書いた。

さて、自分自身で自分の価値を創出するために何が必要かと考えれば、一つ思いつく。

自殺、死亡という観念を想起した時に、なぜ人は恐懼するのか。それは、今この知覚がなくなってしまい、一切を感じられず、考えられず、人体の物理的機関が全て機能喪失し、塵になってしまったときに、意識は何処に行ってしまうのかということを考えるからである。

意識の拠り所が脳みそ全体にあると考えれば、脳みそが破壊されて仕舞えば考えることもできなくなるのだから、全ての生命維持装置はぷつんと切れてしまって、無明の闇に消える。

だが、どこからこの脳は形成されたのか。それさえ俺含めた一般人にはわからない。

そして闇に飲み込まれた意識もどこに行くかわからない。

ということは、人が最も重要視することは、自分がたった少しのことであれ、意思決定つまり、『思考する』ということなのである。

死んでもいいとか、死にたいとか、生きるのに疲れたというのは、「思考することに疲れたからもう休みたい」ということなのである。

 

要するに

俺は俺のために死んではならない。

俺は「俺が思考することを尊重して」、その思考を放棄するような「いま自殺すること」からなんとしてでも逃げなくてはならない。

利己的に見えてもいい、犯罪を犯してもいい、社会的に潰されてもいい、人と会い、触れ合うことに疲れたならば人との関わりを絶ってもよい、それでも「自分が思考をやめないように」「いま死んではならない」のである。

事故で死んでも、病気で死んでも、殺されて死んでも、それはもう仕方がない。それは、自分の思考も他人の思考も介在し得ない偶発的出来事によって起きた不幸としか言いようがないからである。

自分の力ではどうにもならないことは、どうしてもどうにもならないのだ。

だからこそ、自分自身で「良くなるかもしれない」し、「悪くなるかもしれない」ことを放棄してはならない。どちらに転んでもいいから、とにかく考え続けて、生きるという一本道に片足ずつ踏み出し続けなければならない。

 

だからこそ辛い

「俺は眠らない、なぜなら眠りは死のいとこだから」

NAS "N.Y. State Of Mind" (和訳)

眠りは明日も思考し続けるための糧になる。

整理された記憶は、思考を続けるために編み出された脳みその最良の機能だ。

だから俺は眠りたい。

いつの日かどうせ死んでしまうのだが、その日までぼーっと考え続けていたい。

自己啓発だとか、スピリチュアルだとか、意識高い系なんてやつらは糞でもガツガツ食ってろ。

てめえらみたいなクソどもは俺の積み重ねた思考の前には膝を屈さざるを得ない。

なぜなら俺は俺のために21年もの間考え続けたのだから。

それほどまでの期間俺を思い煩い、苦しみ、悩み、時には考える自分を殺したいと思ったほどに忿怒した人間はこの世にいない。

俺は俺のために生きることができているのだ。

考えろ、考え続け、苦しめ。

目の前には死が見えている。それでも考えろ。漫然と考えろ、苦悶しながら考えろ、安らかに考えろ。

これから先も良いことなんか少ない。自分にとって居心地の悪い、不快なことの方が断然多い。

それでも考えろ。

俺は俺のために生きている。

最も頼るべきは、今まで考え続けて、死に続け、諦めなかった俺自身だ。

踏ん張れ、負けるな、いま死ぬんじゃない。

どうせ死んでしまうけれど、それでいい。

自分の存在を肯定できるのは自分だけなのではないか?②

他人から生を望まれること

親というものは子に生きて欲しいと願うものだという。全てがそうとは言い切れない。

俺の親も生きていてほしいと何度も口に出して言ってくれたし、そんなことは当然ともいえる態度で接してくれていた。

友人からも、そういうことを何度も言ってくれる人がいる。時に涙してくれる人もいる。

「君が生きていてくれるならば、それでなにもかも許そう」という意味の言葉を口に出してくれた人もいた。

だが、同人が言った別の言葉が俺にはどうも引っかかって仕方がなかった。

「君が生きていていいのは誰かが君の生を願っているからだ。赤ん坊を見てこいつは存在価値がないから生きていても無意味だと思うかい?」

赤ん坊のくだりは確かにその通りだと、すっと胸を突き通した。まち針に刺された標本の昆虫のように、俺の記憶に残り続けるだろう。そして今後の思考においても重要な位置を占め続けるだろう。今回出てくるかはわからないが。

自身の肯定のために

気にかかったのは前段である。

地球上の誰か一人にでも願われているなら、自分は生きていてもいい。

それは確かにその通りだけれども、利己主義の塊のような自分にはどうも違和感が拭えない。

理由を事細かに説明することは、虫けら並みの脳みそでは書くこと能わない。

おそらくは、前回書いたように、今まで苦しめられてきた他人からの目、つまり、他人からの評価(それがたとえ主観的であろうとも)のみで自分が立脚しているということが不快なのだと思う。

生きたいのに、自分を苦しめる他人からの目という存在を無くすためには、他人の目を気にしなくて良い内部に生きる理由を造る他ない。俺が答えを創るしかない。

それは他人を受け容れ、自分を受け容れることにも繋がると思うのだ。これからを生きるために、自分で自分自身を肯定できる気がするのだ。

自殺する理由

『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』という書籍がある。

 

 

著者の中島義道という方は、哲学者である。まぁ偏屈な人である。

この本の中で、彼は自身の知っていた学生が自殺してしまったことを書く。そこにこう書かれている。以下引用。

「先生。どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのでしょう?」
「きみが死んだら、ぼくは悲しい。だから、死んではいけないのだ」

中島は、結局のところ、自殺してはいけない理由は現状これのみだと言い切る。

どうして今死んではいけないのか。生きるのはこんなにも辛い。死んだ方が救いになるようなことだって、人生にはたくさんある。それなのになぜ今死んではいけないのか?

中島は、俺の知り合いが言ってくれた言葉そのままのことを本書の中で何度も述べる。

そして、同時に、考えることを放棄してはいけないとも言うのだ。死ねば、今我々が死後の世界を一切知らない以上、現世での思考を全て打っ棄ってしまうことと同じなのだから。

高校の時にこの本を読んで、衝撃が頭脳を貫いた。

それが本当に人の口から出てきたことにも正直吃驚した。

そんなことを思われるほどの人間ではないのに、としかその時は思えなかった。

だからこそ、俺が規律を立てなくてはならないのだ。

 

自分の存在を肯定できるのは自分だけなのではないか?①

死への憧憬

ふと気がつけば、死にたいという四文字が頭をよぎる。
中学時代から、自分は他人と違うから、普通と規定されていない自分自身はここにいるべきではなくて、どこかへ行ってしまった方がいいのではないかという観念が頭を支配し続けている。
人間失格という四文字の悪魔的誘惑、自殺への無意味な憧憬、とめどなく流れ続ける自己否定、どんなに楽しいひと時を過ごしても、その次の瞬間にはその欠片が頭をもたげて俺を見る。
それは、若者の情熱の一方向性などというものではない。どうしても頭の片隅にこびりついて取れない。
自分は他人から必要とされていない。だから死ぬべきだ。そう思えて仕方がない。
高校の頃は、受験の煩わしさがその本質から俺を遠ざけてくれた。新たなる跳躍のための蓄積の期間が、それだったに違いない。

他人からの評価

大学に入って、団体の長になると、やはり失敗続きで、そういうことをまた考え出す。俺は失敗しかしない。失敗が怖いから挑戦もしない。もはや生きるのに疲れ切った。誰からも必要とされないのならば、もう死んだ方がよい。
そうとしか思えなかった。俺は人生の敗者だ。脱線した車両だ。なぜなら彼らは俺を侮蔑の表情で見つめるからだ。

しかし、そうではなかったのだ。彼らだって人間なのだから、俺を憎んだり、蔑んだり、呆れたりしただろう。それは事実だと思う。
だけども、それが全てではない。人間は複雑なもので、俺には理解できない感情だって数え切れないほどある。どれほど小説を読んでも、どれほど映画を見ても、どれほど人の話を聞いても、俺は俺の世界から脱け出すことはできないからだ。
だから、他人を基準にして自分の存在価値を決めるのは無意味だ。人間というものは協調して生きてきた動物だから、どうしても他人の目を気にせずにはいられない。日本文化もそれを重点的に見ている。それも起因しているだろう。他人の目を気にしすぎるあまり、生きるために右に倣い、自身の面子のために自決する。
だからこそここまでの自殺大国が出来上がったのだ。

しかし、生きる希望もそこから湧いてくるといえばそうだ。生きるためには、それがどんなに少数、たった一人であろうとも、他人が自分を必要としてくれている、というただ一つの存在証明を受け容れることは可能だ。

自身による自身のための規律

だが、それも自分の中での憶測に過ぎない。誰からも必要とされていないのに、烏滸がましくもそんな風に思ってしまうのは、いかがなものだろう。俺は正しいとは思えない。
この場合の正しさとは、俺の中での規律である。基礎からぐらぐらしていて、全く貧弱なものだが、それでも俺の中で確固たる地位を占める規律だ。掟といってもよい。法といってもよい。

他人によって存在価値が否定されたり、肯定されたりするくらいならば、やはり自分から自分の存在価値を揺るぎないものに据えたい。