自分の存在を肯定できるのは自分だけなのではないか?③
俺の規律
前回、前々回を踏まえ、俺の規律を構築しようと思う。
念頭に置いてほしいのだが、これより以降は完全に哲学でもなんでもなく、ただの素人が独り善がりに書く戯言であって、何の学術的根拠もなければ生活における知恵もない。ただ俺が俺のために書くものであるから、乱文駄文であってもご容赦願いたい。なぜなら決着をつけるのは俺のためだからだ。
私
「私」と呼べる自分は存在しない。自分は何処にいるのかと言えば、やはりそれは自身の認識の外にいる意識こそ自分なのだ。
①自分が「自分だなぁ」と感じる自分は、「私」そのものではない。それは自分によって演出された「自分」というイメージである。自分自身が知覚しない自分がいるのだから、これのみによって自分を自分たらしめるのは、自己中心の極みである。
②他人から見た「あの人らしい」という感覚も、やはり「私」そのものではない。それは他人によって見える範囲の「あの人」であり、当該他人から見た「あの人」というイメージである。他人からの評価のみを気にして、外部に見える範囲で自分を統制すれば、「あの人」というイメージは容易に作ることができる。だが、往々にしてそういった作為は見破られることになる。
③では、自分からも他人からも見えない部分はどうか。自分からも他人からも見えないのだから、それは最早何者でもない深層意識であって、自分を自分たらしめるものではないと思うが、やはりそこが「自分」を「私」たらしめる本質がある。
ぼーっとしていると、我を忘れてぼーっとするときがある。それが本来の「私」なのである。ただ無我になり、何かを行なっている時の、何も考えず、ただ黙々と行うその内面こそが自分を自分たらしめている。
それは、わたしのような浅学不遜なものには到底説明できない。だからこれは哲学でも、心理でも、脳科学でもない。ただの納得である。
深層意識よりもっと底の、シナプスに到達するその前、ある一筋の電気信号こそが自分であり、全ての根源なのである。
ふわふわした自分なんてものを探すから、どうすればいいのかわからなくなるのだ。自分の意思も、他人の意見も尊重してはならない。思う前に決まっていることに身を委ねることが自分の表出になる。
価値の創出
正直言って一個前の見出しは余談だが、俺の立場をはっきりしておくために一応書いた。
さて、自分自身で自分の価値を創出するために何が必要かと考えれば、一つ思いつく。
自殺、死亡という観念を想起した時に、なぜ人は恐懼するのか。それは、今この知覚がなくなってしまい、一切を感じられず、考えられず、人体の物理的機関が全て機能喪失し、塵になってしまったときに、意識は何処に行ってしまうのかということを考えるからである。
意識の拠り所が脳みそ全体にあると考えれば、脳みそが破壊されて仕舞えば考えることもできなくなるのだから、全ての生命維持装置はぷつんと切れてしまって、無明の闇に消える。
だが、どこからこの脳は形成されたのか。それさえ俺含めた一般人にはわからない。
そして闇に飲み込まれた意識もどこに行くかわからない。
ということは、人が最も重要視することは、自分がたった少しのことであれ、意思決定つまり、『思考する』ということなのである。
死んでもいいとか、死にたいとか、生きるのに疲れたというのは、「思考することに疲れたからもう休みたい」ということなのである。
要するに
俺は俺のために死んではならない。
俺は「俺が思考することを尊重して」、その思考を放棄するような「いま自殺すること」からなんとしてでも逃げなくてはならない。
利己的に見えてもいい、犯罪を犯してもいい、社会的に潰されてもいい、人と会い、触れ合うことに疲れたならば人との関わりを絶ってもよい、それでも「自分が思考をやめないように」「いま死んではならない」のである。
事故で死んでも、病気で死んでも、殺されて死んでも、それはもう仕方がない。それは、自分の思考も他人の思考も介在し得ない偶発的出来事によって起きた不幸としか言いようがないからである。
自分の力ではどうにもならないことは、どうしてもどうにもならないのだ。
だからこそ、自分自身で「良くなるかもしれない」し、「悪くなるかもしれない」ことを放棄してはならない。どちらに転んでもいいから、とにかく考え続けて、生きるという一本道に片足ずつ踏み出し続けなければならない。
だからこそ辛い
「俺は眠らない、なぜなら眠りは死のいとこだから」
NAS "N.Y. State Of Mind" (和訳)
眠りは明日も思考し続けるための糧になる。
整理された記憶は、思考を続けるために編み出された脳みその最良の機能だ。
だから俺は眠りたい。
いつの日かどうせ死んでしまうのだが、その日までぼーっと考え続けていたい。
自己啓発だとか、スピリチュアルだとか、意識高い系なんてやつらは糞でもガツガツ食ってろ。
てめえらみたいなクソどもは俺の積み重ねた思考の前には膝を屈さざるを得ない。
なぜなら俺は俺のために21年もの間考え続けたのだから。
それほどまでの期間俺を思い煩い、苦しみ、悩み、時には考える自分を殺したいと思ったほどに忿怒した人間はこの世にいない。
俺は俺のために生きることができているのだ。
考えろ、考え続け、苦しめ。
目の前には死が見えている。それでも考えろ。漫然と考えろ、苦悶しながら考えろ、安らかに考えろ。
これから先も良いことなんか少ない。自分にとって居心地の悪い、不快なことの方が断然多い。
それでも考えろ。
俺は俺のために生きている。
最も頼るべきは、今まで考え続けて、死に続け、諦めなかった俺自身だ。
踏ん張れ、負けるな、いま死ぬんじゃない。
どうせ死んでしまうけれど、それでいい。